マチュピチュ紀行
2期 佐藤明宗
チリでは天候異常で雨が降らず、主力産業の銅産業は水力発電ができず、危機的状況。急きょ、三菱重工に、火力発電所2基の建設の依頼が入った。その鋼材検査に1年ほどチリに滞在する技術者を募集していたので応募したら運よく合格。滞在中の2008年の7月、念願だったマチュピチュに行った。
チリからまず首都のリマを経てインカの首都だったクスコへ。3400mの高地に一気に飛行機で行くので軽い高山病になり少し歩くと息切れ。そのクスコから電車で4時間。マチュピチュへの登山口アガリカリエンテは谷合の奥の小さな町。さらにバスに乗り換えて30分、ようやくマチュピチュの入口へ。いよいよあの天上の古代都市に足を踏み入れる。ゲートを通ると、やがて広い100戸近い石組みの居住跡群が広がる頂上にでた。やはり、こんな黒部峡谷のような山奥に古代の文明都市が突然姿を現すのは不思議な感動があった。しかも、いろんな現代では考えられない古代人のすぐれた足跡があった。王の居住地や祭壇跡の石組は、複雑な形状の巨石を、かみそりすら入らないほど、ぴったりとすり合わせている。硬い砂を間に入れて石をこすり あわせたのだろうと思っていたが、それを行うには、数10トンとあまりにおおきすぎた。しかも建物は、13度の傾斜をつけているために、石の形状は、1個ごと複雑な寸法をしている。別々に作ってこれだけの精度は、現代の石工でも困難だろう。
アメリカのエール大学を卒業したハイラムビンガムは、インカの文献を読んで、インカの最後の都市を見つける夢にと りつかれ、数人の仲間と、クスコから北の山峡にテントを張っていた。近くの小屋の主人が、谷の向こうの山の上に、 古い遺跡があるという。友人たちは、だれも信じず、その主人とビンガムのみが出発した。やがて急峻な傾斜に精巧な棚田が見つかり二軒の小屋に百姓が住んでいた。そこに居た少年が、さらに上に大きな遺跡があるという。ビンガムは、その少年の案内でさらに登って行った。やがて、樹木に覆われた山の中に、突然、精巧な石組のゆるやかなカーブを描く宮殿がみつかった。クスコの王宮と同じ形状に気づいたビンガムは心躍った。さらに山上にこの字型の大きな石の祭壇が見つかった。そこは、なんらかの理由で、打ち捨てられたインカの王が建てた都市であることは確かだったが、なぜか金銀の財宝は、ほとんど見つからなかった。見つかったのは170体のミイラ、その150体は、王の後宮の乙女たち。20体は老人。悲しいことに、この都市を捨てて、更に奥地へと逃げる時に、足手まといで、殺されたのだろ
う。ミイラとして生贄にする時には、痛みを感じないような薬をのまされていたというが、ある一体は、頭に手をあて
て絶叫する表情をしていたという。
いよいよ山上の古代都市へ
山上の祭壇
精密な石の回廊と棚田

古代へ思いをはせる
ビンガムが発見した当初は木々におおわれていた

帰りに予定していた日に、ペルー労働者の一斉ストがあり、急きょ、前日の夕方の便にのって途中まで帰ることになった。途中の駅につくと、トラブルが待っていた。母娘三人と待っていたバンの乗り込もうとすると、中年のふた組の夫婦がバンに陣取って、狭くなるから一人しか乗せないという。たしかに狭くはなるが、9人乗り。しかし、あくまでも一人しかだめだといいはる。
あなたたちは、どこの国だ?ときくと「アメリカ」という。そうかやっぱり、あの悪名高い傲慢な国か。信じられない。この寒さの中にこの母娘たちを宿もなく一夜をすごせと言うのかと言うと、それはツアー会社の問題だ、知ったこっちゃないと言う。結局、すったもんだして乗れることにはなったが、それからも大変だった。
20時に着いて動き出したのが、ようやく24時すぎ。道路には、いたるところ、大きな石や樹木が転がされ、大きな石が道路を占拠して通れぬとこがあるとかで、一時バスは大きく迂回して舗装のない谷あいの道をたどった。ようやく、深夜3時にクスコの宿に戻れた。シャワーを浴びて熟睡。眠ることがこんなに素敵なやすらぎを与えることと知った初めての体験だった。

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